火曜日, 1月 25, 2011

真冬のホウレンソウ・千住宿

 冷たい北風が吹き 農園に 人影は見えません。
 人々はこの時期 農園に出て来ても 穫るものを穫れば さっさと帰ってしまいます。
 それに引き換え いよいよ 食べる物が無くなったのでしょう マナーの悪いヒヨドリや 群れで好き勝手に振る舞うムクドリが目につきます。

 久し振りの農園へは ホウレンソウを穫るための出て来ました。
 ホウレンソウの葉は このところの冷え込みで厚みが増し 色が濃く 重そうで ピッタリと地面に貼り付いています。
 ご覧の通り 15㎝ほどの間隔で 3筋種を蒔いたホウレンソウは 上に伸びないで 横に広がり お互いに隣のレーンに侵入しあって それぞれの筋が見えなくなっています。 こうなるとホウレンソウの収穫は 葉と葉がひっつき合って 扱い難く 寒風の中で時間がかかりました。 穫ったホウレンソウは 店頭のポリ袋の中で行儀よく収まっているのとは 別野菜の様です。
 しかし その分 食味は最高でした。

 江戸四宿の一つ 「千住宿」を歩いて来ました。 
 家康は防衛上 隅田川に橋を架けることを嫌い 長らく「千住大橋」が唯一の橋でした。
 日光街道も奥州街道も水戸街道もここを渡り 仙台の伊達候や水戸の殿様など 60以上の大名が参勤交代で通りました。 更に日光参拝時は将軍の大行列もあり 千住宿は 大変な交通量でした。(芭蕉もここから「奥の細道」の旅に出ました)
 千住宿の町並みは 旧日光街道沿いにひらけ 天保15年(1844)の時点で 南北32町 人口約1万人 本陣1 脇本陣1 旅籠55軒 。 人口は品川宿の6千人強を大きく上回って 江戸四宿の中で最大でした。
 始めの写真は 旧日光街道に沿った千住の現在の様子です。 この右手辺りにJR常磐線と地下鉄千代田線の「北千住駅」があって 最も賑やかなところです。
 次の写真は この通りの左側 店の看板の陰に立っている「千住宿本陣跡」の石碑です。
 本陣は 石碑の立っている所から 奥寄り 西側に広がり 土地面積は約360坪 建坪は120坪の堂々たるものでした。 ここに殿様が泊まり 家来達は脇本陣や 一般の旅籠屋を使って泊まりました。
 「大名旅行なるものは夜具布団、食器はもちろん風呂桶から便器にいたるまで、必要道具は一切持ち歩き、本陣は建物を賃貸しするのみで、宿泊料金は心付けに過ぎず、諸大名の格式や懐具合で一定していなかった 」そうです。
 この町並みの途中に 古い家屋が2軒残っています。 一軒は 安政の大地震(1855年)の後に建てられた紙問屋(写真の家)です。 玄関の柱に残っている傷跡は 官軍と戦った彰義隊が刀で斬りつけたものといわれています。
 その筋向かいにもう一軒 「千住絵馬」を作り続けている家が残っています。

 「千住宿」が大きくなった要因は 交通の要点であったことの他に 川向こうに広がる農村地帯からの物資の集散地としての好立地にあり そのために街道を挟んだ両側に問屋街「やっちゃ場」が形成されたことです。
 お終いの写真は それらの物資を取扱う問屋の一軒の看板です。
 江戸時代には青果のほか 穀物・川魚などの問屋が軒を連ねていました。
 その店先で それぞれ せりが行われ せりのかけ声の「ヤツチャ ヤツチャ」から「やっちゃ場」の名が起こったといわれています。
 クリックすると Picasaアルバム「千住宿」 がご覧いただけます。

水曜日, 1月 12, 2011

新年の白菜、七福神巡り

 正月恒例 白菜「王将」のポンチョ姿です。
 昨秋のスタートが遅れたので この姿を見るのも 年が明けてからになりました。 
 例年は今頃になると ポンチョの部分(白菜の外葉)は枯れてボロボロになっていますが 今年は ずっとトンネルの中に居ましたので どの白菜も比較的きれいなポンチョを羽織って気取っています。
 今日も一株 収穫しました 根の周りに病気や虫食いも無く 巻が堅く どっしりしていて 目方は4キロ半あり まずまずでした。

 風がなく 暖かな日差しがうれしい一日 年はじめの七福神巡りをしました。
 今年は 数ある東京七福神巡りのうちで「下谷七福神巡り」と言われる下町のコースです。
 左の写真は「布袋尊」です。
 布袋尊は唐時代の中国に実在した僧で 欲は無く 当座の日用品だけを袋に入れて持ち歩き 子供たちと遊ぶ姿を表しています。 見ている人達からは 随分のメタポだ! との声が聞こえました。
 この近くに「樋口一葉記念館」が あります。 菊池寛が “ここは明治文壇の天才樋口一葉旧家の址なり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の龍泉寺の面影永く偲ぶべし。今 町民一葉を偲びて碑を建つ。一葉の霊来たり留まらん。” と書いた碑があります。 この辺りは 吉原です。

 1ブロックほど歩くと 正法院(飛不動)があり ここには「恵比寿」さんが祀られています。
 七福神の中で「恵比寿・大黒」は日本の神様で 葦の船に乗せて南の海に流したのが 福神となって戻って来られ 鯛は海の幸を 米俵に乗った大黒は陸の幸として 商人の信仰を得るようになった と言われています。
 また「飛不動」の由来は 昔 この住職が本尊を持参して大和大峰山で修行していたところ この本尊が一夜にして飛び帰ってご利益を与えたことから この本尊のことを「飛不動」と呼び 今は飛行機旅行の人達の護り本尊となっています。

 吉原は 江戸に於ける唯一の幕府公許の遊郭として 今の日本橋人形町辺りありました。 当時 吉原辺りはヨシの生い茂る湿原であり ヨシの原 が吉原の語源だそうです。
 その沼地の畔に 弁天祠として祀られていたものが 遊女や芸者の苦しみを救って下さるものと強く信仰され 文化・文政の頃には「吉原弁財天」として多くの人に知られる様になりました。
 新吉原花園池址には 昔 沼地の畔に祀られた 弁天祠に残る 遊女たちの名札とおぼしきものがありました。
 ここで昼食休みに入り 午後 残りの 毘沙門天・福禄寿・寿老神を巡りました。
 クリックすると Picasaアルバム「七福神めぐり」がご覧いただけます。

日曜日, 1月 02, 2011

あけまして おめでとうございます

 今年も 野菜達と 親しく語り合えますように
 そして その悲喜交々を ここに書き残せますように 祈っています。
  かわりませず よろしくお願いいたします。

 風もなく 穏やかな冬の日差しがいっぱいの朝です。
 神田川の崖の上にある稲荷神社には 近所に住んでいる氏子達が家族連れで初詣にみえています。
 鳥居をくぐって 参道をゆくと本殿の正面に 茅の輪がしつらえてありました。
 お達示に従って “宮川の 清き流れにみそぎせば 祈れることの 叶はぬはなし” と口ずさみながら 8の字を描き3度 茅の輪をくぐりました。

 その足で 神田川を渡って初登園しました。
 農園には 既に人影が見えていて 新年の挨拶をかわす明るい声が聞こえます。
 防虫兼防風のトンネルの 裾をからげて小松菜を穫りました。
 江戸時代のこと 小松川に鷹狩りに来た将軍吉宗が 地元で穫れた小松菜を食べて気に入り 小松菜と命名したとの謂れがあるほどに 昔からの地元の野菜です。 また「冬菜」の別名を持っている小松菜は 寒くなると 甘み 柔らかさ 香りともに ピークになります。
 自然の作物は 長年その土地の気象・風土に慣れている場所で 最もストレスが少なく生育してきた 所謂「旬」の時期のものこそ 何よりです。